ayako tsuboyaのブログ
by book-tokyo
engawa
2008年、とりとめなく続く毎日に、こどもの視線や息づかいが加わりました。
そこに在ることをどのように見出すかによって環境や認識、はたまた自分自身と生き物の在りようが変化する。その在りように、どう向かいあいましょう。
アート&デザインwithサイエンスの日々のメモ。

暖かい新聞紙の様なノートを縁側に敷きました。旅するみなさま、しばし腰を降ろしていってくださいまし。


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わたしたちのものがたり 2006 終了間近か
同級生の吉野氏がデザイン担当した、新潮社「yomuyomu」ご覧になりましたか?大貫卓也AD、100%Orengeさんのキャラクターがちょこんとした赤い表紙の小説雑誌。本文組みはもちろん美しい(読みやすい)!今どきのときめく作家オンパレードです。いい匂いがしました。
同世代の作家が、現代的だ、リアルだと評されて読まれる小説、私には残念ながらあまり新鮮でもない。永井荷風の仕方のない情緒不安定なおとなたちや、小津に出てくるいらいらするような自己主張の少ない遠回しで歪んだやりとりが、もう何十年も前の物語であるのに、妙にリアルに感じられる。
逆に、北野武の映画に描かれる暴力や理不尽は、小津の時代にタブーにされて描かれなかっただけで、日々には茶飯事だったのではないだろうかと思う。(だから描ききっているTAKESHIが評価されるのかもしれませんが・・)いづれにしても、良くも悪しきも日本人の内面は文明開化の時から変わっていないのではないかと、勝手に想像してしまう。
彼らの時代からうっすらと積もってきた、からまってどうしようもない細い糸のもじゃもじゃのような混沌と矛盾が、わたしたち世代の心にもひっそりと影を落としていることに、もっと目を向けるべきだと思うこのごろ。今頃、不可思議なモラルに裁かれて、表出してきたもじゃもじゃにもつれた糸。
とはいえ表現は、変わらないと思われる流れのどの部分に光を当てて描くのかとも言えるでしょうか。光を当てても、見つける眼、見ない眼、さまざまな眼があるのでしょうか。見逃しているところに眼を向けて描き出すことは、歴史を創る大切な行為だと泡撓めて思う。
2006年も終わりに近づきました。
山全体の彩りが、ダイナミックに変化する劇的な季節。目を瞠って・・。

「世界とは、ただぼくらが 異なった生き方をするときにのみ、異なったものとなるのだ。」EL ARBOL DEL CONOCIMIENTO by HUMBERTO MATURANA and FRANCISCO VARELA

みなさま、どうぞ良いお年を!
by book-tokyo | 2006-12-28 00:28 | 呟き
都市に住まわないこと
現在近郊里山族(自称)。東京近郊育ち、中学生の時から通勤ラッシュにもまれ、おとながお酒を呑み、呑まれる路地を通学路にしていたせいもあって、都会に対する妄想や憧れが少ないのではないかと思っている。

援助交際や青少年を対象にした事件が社会問題になる以前には、歌舞伎町も渋谷のセンター街や円山町界隈、そのほか東京に点在していた歓楽街は今よりも暗闇のある子供には立ち寄れない雰囲気のある街だったように思う。
だからこそ、そんな街の中にひょいと入り口があったジャズ喫茶やロックバー、綺麗なお姉さんが待ち合わせをするようなカフェ、外国語の話される居酒屋は、まだ未成者にとって異世界を覗くような面白さがあった。
あいにく、知ったかぶりで生意気な娘は、現実から脱線。なぜかそのまま空想と夢想の世界へ突入したまま、憧れだったおとなの街からは遠く離れたところに生息している次第。

東京近郊という、非常に曖昧な場所からは、東京都心で繰り広げられている様々な行為が同時多発的に見えるように感じる。誘われて、行こうと思えばゆけるのに。谷間に留まって静かにしていると、都会で繰り広げらている様々な事象が目に映る。少し遠くでその呼吸を聞いている。
師走には、東京近郊の空が、ことのほか色めき立っているように感じます。
by book-tokyo | 2006-12-28 00:12 | 呟き
書けるひと、書けないひと(ちょっとした羨望)
コンピューターアート展カタログ巻頭に書かれた「コンピュータ・アートの今日的展開」と題した久保田 晃弘氏のエッセイは、そういった過去のコンピュータ・アートの再定義をしていて面白い。長くなりますが引用しておきます。
「コンピュータの登場に引き続いて1960年代の初頭の誕生した、プログラム言語を主たる手段として芸術作品を生成する「コンピュータ・アート」も、今では「ソフトウェア・アート」と総称される、より広い創作領域によって再定義されるまでに成長した。ソフトウェアを芸術表現のために(独自の方法やスキルを必要とする)ユニークでダイナミックなメディアとして用いるソフトウェア・アートを、メディア芸術の世界で最初に定義したのは、2001年にベルリンで開催された、アートとデジタル文化のための「トランスメディアーレ」フェスティヴァルであった。
そこではソフトウェア・アートが以下のように定義されている。
「One definition suggested for Software Art is that it encompasses projects in which self-written algorithmic computer software - stand-alone programs or script-based applications - is not merely a functional tool but in itself an artistic creation.」

この定義の第一ポイントは「 self-written algorithmic computer software」という一節にある。「アルゴリズムを自分で書く」というその行為は、今回の展覧会における60年代のアルゴリズミック・アートのパイオニアたちのアプローチと直接的につながっている。さらに最後の「artistic creation」という宣言によって、ソフトウェアが(科学的にではなく)芸術的であることの意味を再検討する必要性を提示する。」

ここで、コンピュータ・アートの過去の定義(?)は、ソフトウェア・アートと総称されて広がり、「ソフトウェアを芸術表現のための(独自の方法やスキルを必要とする)ユニークでダイナミックなメディアとして用いる」と述べられている。多くのアルゴリズム(つまりプログラム)を自ら書けないアート系の、でもこの新しいメディアに興味津々の人にとっては、でも、やっぱり「アルゴリズムを自分で書く」のは基本だということにぶつかるんです(笑)

永原康史さんも講演会のなかで、まったく書けなかった学生が、たらりのらりと半年勉強して日常会話程度はできるようになりましたとおっしゃっていました。
助手をしていた頃に、授業で知った「LOGO」や、知り合いに教えてもらった「DBN(Design by Numbers)」、「Processing」などは、確かにささやかながらプログラムが動く喜びや愉しみに夢中になれる。
おいっちにさんし〜、頭の体操かもしれません。

最後に久保田さん文中孫引用
「科学はコンピュータで説明できるくらい私たちが良く理解していることであり、芸術はそれ以外のすべて」だと語る(米スタンフォード大学コンピュータプログラミング芸術名誉教授ドナルド・クヌース『コンピュータ科学者がめったに語らないこと』)

芸術と科学の境界も常に流動的であり続ける、私たちの意識も、流動的な境界と共に流動的なのだ。少々はじけました。
by book-tokyo | 2006-12-27 23:34 | in art in science
コンピュータアート展
12月17日まで開催中だった、「コンピュータ・アートの軌跡と展望〜現代アルゴリズム・アートの先駆者・現代作家の作品・思想・〜展」
多摩美術大学美術館(多摩センター)に観に行ってきました。
展覧会を観れたのは時間の都合2回ですが、講演会(参加費無料と書いてある)に参加するたびに、入館料300円を払わされて、すでに1000円以上を支払っている。なんだか腑に落ちないという感想(愚痴です。笑)
というのは冗談でして、展覧会はとてもおもしろかった。少なくとも私にとっては。コンピュータ・アートはずばり今や充電中・模索期間なのではないか。それこそ「消えてゆくもの」を次世代に繋げるための記録的な展示だったのではという印象があります。最先端のアルゴリズムを求めて、カオス的な人体への旅に出たような(lost a way)。とはいえ昔の作品を同時代に見ていない私たち以下の世代にとっては、実物を見られるのは貴重な機会だったと思います。70年代にプロットアウトされた紙の作品や、刊行された雑誌や書籍の美しさ、様々な実験的な作品は今見ても非常に新鮮だと感じられました。紙とボールペン。

展覧会カタログ文中や、展覧意図にも書かれているのですが、私がこの活動に共感したのは「絵画やグラフィックデザインの領域においても、感性や技能の踏襲、熟練という手法に依存せず、さまざまな論理性や原理に基づく数理的な解析を用いた記述(プログラム)によって、人間の手だけでは創出できなかった視覚造形を実現することが試みられました。」という歴史解説。今観ている数々の作品には、それが面白いと感じられるものがありました。
ただし、カタログにもあった「芸術活動の主体はコンピュータである、我々の目指すコンピュータ・アートとはコンピュータを芸術創造の主体ととするコンピュータのアートであり、コンピュータが芸術するのであって、コンピュータを利用する人間芸術とはその理念を異とするものである。」という宣言にはう〜ん。なんだか、狂気すら感じてしまった。プログラムを書くのは人間なのでは?
プログラムを書いて、美しいと感じたり、つまらないと感じるのは、コンピュータではなく、人間なのだから。

多摩美術大学美術館 
「コンピュータ・アートの軌跡と展望〜現代アルゴリズム・アートの先駆者・現代作家の作品・思想・〜展」
http://www.tamabi.ac.jp/museum/exhibition/default.htm

なんて、ナンセンスな問いかけと応えを書き連ねてしまいました。つづく
by book-tokyo | 2006-12-27 23:30 | in art in science