ayako tsuboyaのブログ
by book-tokyo
engawa
2008年、とりとめなく続く毎日に、こどもの視線や息づかいが加わりました。
そこに在ることをどのように見出すかによって環境や認識、はたまた自分自身と生き物の在りようが変化する。その在りように、どう向かいあいましょう。
アート&デザインwithサイエンスの日々のメモ。

暖かい新聞紙の様なノートを縁側に敷きました。旅するみなさま、しばし腰を降ろしていってくださいまし。


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おまけ・動物園
オリンピック会場から、さらに道を行くとある、サラエボ動物園。
「アンダーグラウンド」の冒頭で、砲撃を受ける動物園はここなのですが、実際の撮影はザグレブの動物園で行われたそうです。入園料を払って入るものの、どこまでいっても動物はおらず。チケットの写真は大きな熊。お出迎えは後ろ脚立ちしたカラフルなサラエボ熊・・・。そして世界旅行から帰ってきたトランクのような倉庫(何かの見せ物小屋だった?)そうとうな被害だったらしく、動物園の建物はほぼ壊して立て直すような状態で、工事中でした。それでも小さな割くの中には見知らぬ動物が何種類かいました。ところで、この動物園の奥の柵は破られていて、英語を話すキンダーシッターとこどもたちはこの柵の間からご入場。ロバや山羊たちに人参などを与えて遊ぶことひとしきり。しばらくするとまた引き返して出て行きました。ちゃんとチケット売り場も係員の人もいたのに・・・。
ちなみに動物園の隣にある病院の家屋は全焼して骨組みだけになったまま。一番奥の丘の上に建つ病院は、それでも修復が済んで綺麗になっていました。何百人もの妊婦さんが亡くなったという病院の家屋、いつまでその姿を遺しているのか・・・。10年経ってもまだそのままにしてあるのには、経済的な理由だけではないかもしれないと、思わずにいられませんでした。d0020310_23383598.jpg
by book-tokyo | 2006-03-18 23:38 |
おまけ・お墓
ムスリムのお墓は帽子をかぶったような白い柱や、四角柱のミナレットのようなものが多いのですが、これは街の真ん中の、とある公園のようなところにあったとても古いお墓。オスマン・トルコ時代のものなのではとT氏いわく。
霞む大気の中に、時が止まったような空間がぽっかり。目の前では砲撃を受けたオリンピック記念会館が取り壊され大工事中。d0020310_23282910.jpg
by book-tokyo | 2006-03-18 23:31 |
おまけ・パン屋さん
こんなパン屋さんがあったらいいのに!と夢に出てきそうなお店。
通り過ぎるたびに目が釘付けの私をよそに、とっとこ歩いていってしまうパートナー氏。私はただの食いしん坊なのでしょうか。この木の桟、ガラスに書かれた文字。大きくていかにも石窯でゆっくりと焼かれた、おおらかなパン、幸せの象徴かもしれません。質素な暮らしをしていても、パンやワイン、野菜や果物、基本的な食料は安価なこと、美味しいこと・・・。当たり前のように思えて、東京はいかがかな?と思う。d0020310_23171394.jpg
by book-tokyo | 2006-03-18 23:17 |
12. さようなら、またね。
旅行から戻って、1ヶ月以上経ちました。こんな悠長な旅日記に長々とお付き合いいただき、有り難うございました。
書き足りないことがたくさん。キッチュで可愛らしいモノや素敵なこともたくさん。また思い出したら書こうと思います。そうこうしているうちにも、毎日が日曜日の私には出来事が溢れていて(自分自身がそう思っているだけなのだと思いますが・・・)そろそろ旅日記はお仕舞いにしたい、とまとめに入りました。

最終日は、やはりこの写真。
細い路地をくねくねと歩いて昇ったオスマン・トルコが遺した城塞の跡。そこから眺めたサラエボの街は、忘れられません。(ひろい敷地に、中年の男性がひとり、こつこつと修復作業をしていました。何年かかることか!)
十字架とモスクとミナレット(モスクの横にある塔)、教会の鐘の音とコーランが混ざりあい、道を歩いていると街並みが激変する場所。
最終日に宿泊した「LION」はファミリー経営の居心地の良いペンション(バス・トイレ共同ですが、バスチャルシアの中心にあって町歩きには便利でした。新しくて清潔です。)もの凄く美人でユニークな大学生姉妹と、シェールのようなお母さんと話ながら、ベオグラードや東京のことをビックシティとうっとりとした目をする彼らの様子が印象的だった。タクシーや商店ではユーロが使えるシーンが増え、英語を話す人もベオグラードやザグレブより多く感じたのは私だけではないのでは。夏には日本人が中心となったアートレジデンスが開かれているそうで(やや閉鎖的な印象でしたが)、展覧会もあると聞きました。ミリャッカ川に面した美術学校(1階にはApple Storeが!)のクラッシックな窓から、半地下にある版画工房を覗きましたが、木版画を制作する学生が大勢見えました。葛藤や矛盾に満ちて、戦火からの復興が進むこの街にいるだけで、何かを創りたい欲求が湧いて止まないだろうと想像できます。あるボスニアの作家は、政治家になるのか芸術家になるのかその目的は同じだと言っていました。
次に来る時は、どんな街になっているでしょう。不安と期待がマーブル。そしてまた近いうちに!
Phot:オスマン・トルコの遺した城塞跡から
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by book-tokyo | 2006-03-18 23:10 |
13. バシチャルシア
ここを職人街や問屋さん街と呼ぶ人もあるようですが、オーストリアやいわゆる東欧風の建造物の建ち並ぶ街なみにクロアチア人が多く住んでいるのに対して、バシチャルシアから街縁はムスリムが多く住むと聞きます。実際、この辺りを歩く女性はかぶり物(スカーフを頭に巻いています)をする人が多く、街の中心にあるモスクには多くの人が集まり活気がありました。紛争以前はセルビア正教、ローマカトリック、ムスリムなる宗教を持つ異民族が混在していた街も、今は棲み分けが進んでいるとのこと。セルビア人もクロアチア・ムスリム連邦国側との往来も自由だそうなのですが、住んでいるのはセルビア人共和国側です。
さて、私たちはもっぱらこの近辺で食事を済ませ、湧き水を飲み、宿をとりました。ムスリム人とイスタンブールはどのように関係性があるのか未知数ですが、トルコ料理のお店も多かったのですが、今回はパス。主にクロアチアやボスニアで多く食されている「チェバブチチ」(羊挽肉の皮なしソーセージとタマネギと、ピタパンのセット。はさんであることも多い。カイマックというヨーグルトをはさむとより美味しい。)や「ブレッグ」(棒状にお肉やチーズ、野菜クリームなどをパイに包んで、さらにくるくると巻いたもの。餃子みたいな味でラー油と酢醤油が似合いそう。)を食していました。何しろ食料品の物価は安いので、美味しいパンやワイン、果物を買って十分。「サラエボシュコ」というサラエボのビールも美味しい。あまり書かれていませんが、他に美味しかったものは、ジャガイモ(笑)「ブレッグ」もあるファーストフードなどと書いてある食堂に行くと、鶏肉とジャガイモのソテーなどがあって、これ頂戴とキッチンにいるおじさんにお願いすると、お皿に盛ってきてくれます。350円〜400円もあれば、お腹いっぱいになります。
Phot:上・バシチャルシアの道。この奥にはもっと細い路地が巡っている 
下・お気に入りになったブリッグ
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by book-tokyo | 2006-03-18 23:03 |
12. サラエボ・霧の街
バルカン半島、そしてサラエボで私が思い浮かべるのは、「ユリシーズの瞳」(1996年/テオ・アンゲロプロス監督)。ハーベイ・カイテル演じる映画監督Aが最後に出会う女性を永遠に失うのは濃霧の中。冬のサラエボは霧に沈む街だと想像していたのでした。実際には好天候に恵まれ、連日すっきりとした青空。ベオグラードやザグレブに比較すると湿気の多い大気のせいで、午後になるとうっすら曇ってくる日も多かったのですが、あの映画のシーンは「映画」だったのかしらん・・・と思い始めていました。
ところが、思いがけなく感動的なことが。1992年6月、セルビア系勢力によって砲撃された「オスロボジェニ新聞社」を見に行こうと乗ったトラムは、そのまま濃霧の中へ突入したのでした。
「オスロボジェニ新聞社」は砲撃を受けたあとも、地下の核シェルターの中にある印刷所でほぼ毎日新聞の発行を続けたそう。夜間のみ放送を続けた「ラジオ・サラエボ」と共に、包囲されている間、市民に情報を伝え続け、記者自身も新聞を売ったと聞くと、何故か身震いがする。そのリベラルさというのか報道人の熱意、今のサラエボではどうなのだろう。その「オスロボジェニ新聞社」は修復もすんで立派な社屋には戦火の跡は見えませんでした。隣接した老人ホーム施設はいまだに放置されている様子でしたが・・・。
新聞社の横をかすめるトラムに乗って、終点へ。
1m先も見えない濃霧。まさに白い気体にとっぷりつかっている気分でした。写真には写っていますが、実際にはもっと真っ白い世界に、影が動いている状態でした。割合と日常的な風景のようで、バスステーションや街路には何かに導かれているようにスタスタと人が大勢往来しているのがうっすら見えたのでした。こんな視界の中に銃声と命乞いをする声が聞こえた・・・。またしても、何もなかったような街行く人を見て、あってはならないと思いながら、歴史は繰り返される理由はそう簡単にはDNAから消すことはできないのじゃないかと感じたのでした。フィルムは、そんな記憶喪失する脳を静かに刺激してくれる。
Phot:白い気体に沈むひとびと
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by book-tokyo | 2006-03-18 22:57 |
11. ハルバットゲストハウス
さて、2時間ほどしてから帰宅したMs.Iに薪木で火を熾してもらい暖をとりながらチェバブチチ(チェリソのようなソーセージとオニオンをはさんだピタパンサンド)を食し、さっそく出かけることに。鍵がひとつしかないので、Ms.Iと街中まで歩き、夜は教会の前で待ち合わせて帰ることに・・・。YHのミーティングなどの雰囲気が好きな旅人は、Ms.Iのように賑やかで面倒見の良い人と一緒にいて楽しめるのかもしれません・・・。あいにく私たちはわりあいとマイペース派。帰宿時間を待ち合わせるということ自体にストレスが・・・、さらにMs.Iが約束時間に現れなかった時点で、暗黙のうちに「宿を変えよう」とお互いの目に信号を読んだのでした。中央ヨーロッパや東欧ではプライベートハウス(ルーム)がポピュラーではありますが、旅の目的によって吟味することをお薦めします。サラエボもホテルは1泊70ユーロ〜からと高価です。ちなみにMs.Iのプライベートハウスは25ユーロでしたが、安ければ良いとはいえません。ただ、モルタル造りの寒い部屋であたった薪ストーブは、生活物資の乏しかった紛争時代の苦労や辛い話を聞くたびに思い出され、貴重な体験だったと感じています。
ところで、急遽19時頃に電話で今夜これから行きますと予約したのは、ツーリストにも評判の良いゲストハウス。ハルバットゲストハウスはバスチャルシア(ムスリムが中心となってできている中心部にある地区)からすぐにある、小さな1軒家で、経営している若い人々は流ちょうな英語を話すさもインテリな雰囲気。たまたま空いていたらしい最上階の吹き抜けのある部屋からは、バスチャルシアやそのむこうのセルビア人共和国の夜景が素晴らしかった。街の明かりは粉々になった鏡のように小さくきらきらとして、真っ暗な空の底に沈んでいるように見えました。私の印象では、イスタンブールで宿泊したホテルも若い学生のような人々が古い一軒家を改装したところで、シンプルでリーズナブル、居心地の良いところが似ていました。セルビア正教会やローマカトリック寺院の鐘の音と、コーランの響きが窓から滑り込むのを聞いていると、ほんの10年も前に銃砲の音が響いていたことが信じられませんでした。
Phot:ゲストハウスの窓から眺めたセルビア人共和国側の夜景
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by book-tokyo | 2006-03-18 22:55 |
おまけ・青空市場
砲撃を受けた道路の穴に、いつのまにか赤い樹枝(蝋?)を流し込み、その跡を忘れないようにと「赤い花」を街中に咲かせたプロジェクトがあったそうです。ここ青空市場もその赤い花がたくさんあったそうですが、近年、天井が作られ、地面もすべて綺麗にしてしまって赤い花は見えませんでした。
何だか同じような雑貨がたくさん売られていて、それでも大勢の人がいるのが少し不思議でした。安価な中国雑貨の輸入が増えてきて、打撃を受けているそうです(といっても日本人のサイトからの情報ですが)。ボスニアでも中国人に対する印象は良くないようで、わたしたちも中国人に間違えられて嫌な思いをすることがありました。そういう時は、ちゃんと自分たちは日本人だと主張すること、とベオグラード滞在の日本人夫妻から伺いました。同じアジア人としては複雑ですが、誤解から思わぬ事件になることもあるので自らの身を守るためだという意見、残念ながら滞在してみると説得力がありました。d0020310_2349531.jpg
by book-tokyo | 2006-03-17 23:38 |
10. プライベートハウス
事前事後の情報から、サラエボのプライベートハウス(ルーム)についても善し悪しがあるようです。早朝のバスステーション、マルクが無い!と焦ったお手洗いから戻ってくると(注・国境を越える国際バスの発着ステーションですが、両替所はありません。コインのいるお手洗いなどはユーロが使えるところもありますが・・・)、ポエット氏(パートナーT氏のことです)の横には笑顔のボスニア人(正確にはわかりません)が。あとから考えると、少々話が通じていなかった部分多しの状況でしたが、彼女Ms.Iの話を信じて(日本人の滞在客が多く、彼女自身も日本人が大好きだという)宿泊することに決めました。
折からサラエボのトラムもバスも「スト」に入っており(その日からあくる日いっぱい)、街の中心から少し離れたMs.Iのお部屋へタクシーで移動。行く先はかつてボスニア紛争時代、セルビア軍とボスニア軍がせめぎあった最前線に近い、集合住宅や小さな家のたくさん並んだ丘の上の団地。5階にある部屋まで重い荷物を運び上げ(エレベータはもちろんありません)ほっとひといきつくものの、寒い。
T氏いわく「紛争時代」に使用されていただろう薪木ストーブが部屋の片隅にあるものの、薪木はなくひっそりしていました。Ms.Iは床に大きな薄いマットレスをボンと敷くと、毛布を広げて仮眠をすすめ、鍵を外から締めて買い出しに外出してしまったのでした。鍵がひとつしかないから、というもののT氏はすでにいらいらと落ち着かない様子。これは信じるしかないと、部屋や家の中をひとしきり観察してから毛布にくるまって仮眠。(すでにサバイバルですね(笑))ちなみに、2K+Bの住居にはほとんど家具はなく、小さなベットとダブルのマットレス1枚、そして簡素なソファ。脚付きのテレビは懐かしいデザイン。薄い毛布にくるまりながら今夜は凍えてしまうのではないかしら・・・とひそかに心配したのでした。
Phot:ブリキの薪ストーブ。2段になっていて、上はパンやスープを温めることができるよう。d0020310_2181129.jpg
by book-tokyo | 2006-03-11 21:08 |
9. いよよサラエボへ
翌朝はいよよサラエボ、と緊張して深夜バスに。セルビアからサラエボ(T氏の知人が滞在する連邦国側の人々にとって)へは入りにくいので、クロアチアからの入国しようという配慮もサラエボ3回目という彼ならではと感心しつつ、あっけなくコントロールを越える。しかもクロアチア側の国境では女性の係官が出国手続きをしていた。
最近では、入出国に関して難しい問題は少ないよう。
ボスニア・ヘルツェゴビナの貨幣はマルク(1KM=72円、2001年には1KM=約15円だという記録があるので、だいぶ物価が上がっていると言える)、ユーロもだいぶ使用できる。言葉や文字はボスニア語と呼ばれているけれど、実際にはクロアチア人、セルビア人、ムスリム人が混ざっているので、地域や店舗によってラテン、キリル、イスラム、英語表記。ツーリストが訪れる連邦国側はクロアチア人、ムスリム人が主なので、ラテンや英語表記が多かった。早朝バスステーションに着いた時は、薄暗くて英語も通じずそら恐ろしかったのですが、それは杞憂だったことがわかり、出国する時の印象はまた訪れたい街。混沌として、不安定かつ躍動感が伝わってくる場所から目を離せずにはいられないのですが、ポジティブな印象ばかりでもないようにも思う。ひとことでは言えない。とにかく気になる街であることは確かなのです。
Phot:砲撃を受けたままの建物と新しい建築が混在する風景
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by book-tokyo | 2006-03-06 22:52 |