ayako tsuboyaのブログ
by book-tokyo
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2008年、とりとめなく続く毎日に、こどもの視線や息づかいが加わりました。
そこに在ることをどのように見出すかによって環境や認識、はたまた自分自身と生き物の在りようが変化する。その在りように、どう向かいあいましょう。
アート&デザインwithサイエンスの日々のメモ。

暖かい新聞紙の様なノートを縁側に敷きました。旅するみなさま、しばし腰を降ろしていってくださいまし。


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カテゴリ:映像&頁もの( 11 )
『幸せの経済学』@〜グローバルフォレストミーティング/世界森会議へ向けての勉強会、第2回目
本日、〜グローバルフォレストミーティング/世界森会議へ向けての勉強会、第2回目へ。
『幸せの経済学』(ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ監督)を観る。
http://shiawaseno.net/
すいれんには、どんな風に映っただろう。
どうローカライゼーション(この語彙については、翻訳ではローカリゼーションとなっている。コンピュータ用語的には一般的なことを現地化、地域化するような印象がある。「グローカライゼーション」という造語?がしっくりくるのかと思いながら、その根拠を調べずにいます。)してゆけるだろう。

ラダックのみならず、世界中で急激なグローバリゼーションのために崩壊しつつある、長い間培われてきた民族、部族、家族単位の生きる知恵、持続可能な暮らし方。
私も、すでに失われたアイディンティティを懐かしむことすら知らずに育った高度経済成長期第2世代。
幼い頃の原風景は、団地やコンクリート住宅街の狭間に残された小さな野原、護岸され汚れた川、超高層ビル街にかかる霧、高速道路のきらめく灯、そして東京音頭。

映画が終盤を迎えると、初めて国立民族博物館でアイヌの婚姻を記録した映像を観て、ことばにならない郷愁や哀しみを覚えたのを思い出した。DNAには遺されている何かがあるのかな。

映像の中のチベット地方ラダックに満ち溢れていた笑顔、豊かな暮らしは、物質的な充足の質では計れない、わたしが知る日本の豊かさと比較できないものだったのだ。
ラダックには、「セレブ」はいない。誰もが誰かに認められ、誰もが知られているから…。孤独ではないことの幸せがある。
それでも先進国による急激な消費文化の流入は、ラダックのひとたちに劣等感を抱かせ、土を耕す暮らしを蔑み、何より自分たちの暮らし方を幸せだと満ち足りていた心に影を落とした。
ヘレナは言う、わたしたちは消費文化の問題や課題を隠さず伝えてゆく必要があると。
ラダックから地域のリーダーを都市に招き、ショーウィンドウやゴミ処理場、老人ホームなどを廻った時にみせたこの聡明な女性たちの表情が忘れられない。

いま自分がここに住みながらできることは、モノ、コト、その向こうに繋がるひとを想うこと。
行き過ぎた大企業や多国籍企業の商品や、宣伝に対しても同じように。
浮き草のような街育ち第2、第3世代は世界中に溢れている。
そんな世代にも、これからのローカリゼーションを模索&実践しているひとたちがいて、すごいなと思う。
デザインも、地域コミュニティや友人のために試行錯誤する選択肢があることを、次世代に伝えたい。
暗中模索中。

次回は5月8日(日)9:30〜11:45
JICA地球ひろば601会議室(最寄駅・JR市ヶ谷駅)
[ネイティヴな種について知る]
ヴァンダナ・シヴァ「命の種を抱きしめて」について
http://namakemono.shop-pro.jp/?pid=73254294
by book-tokyo | 2016-04-25 01:29 | 映像&頁もの
ニーチェの馬(Tar Bela 2011/The Turin Horse)
何年かぶりにゆっくりと二度寝をして(ことしは春先から喉風邪を1ヶ月に1度罹っている・・)光のきれいな階下へ降りると、すいれんがひとりiMacの大きな画面の前に座って薄暗い白黒映画を観ていました。いつの間にか父親はソファでうたた寝をしていたよう。
昨年日本で公開された「ニーチェの馬」(Tar Bela 2011/The Turin Horse)という作品を観ていたのでしたが、私はタイトル以外に何の知識なく隣に座り、そして惹き込まれていったのでした。
タルコフスキーか、ワイダか・・・ことばはほとんどなく、まるで20年代のフィルム作品のようなライティング、登場人物の一挙手一投足が省略されることなく、淡々と描かれてゆく。
時々すいれんに、話の展開を知るために質問をする(迷惑なことと承知のうえで)「なぜ3日目なの?」「なぜお馬はご飯をたべないの?」。そうすると、「わからない」という返事。日々繰り返される食事、水汲み、着替え、馬の手入れに起承転結や理由はないから・・・すいれんは素直に応えていたのだろうと、観終わってしばらくしてから納得。
ラスト暗闇の中で交わされた「また明日やってみよう」という台詞が心に残る。
20歳(はたち)の頃に浴びるように観ていた「日常こそがうつくしい」(それがどんなに悲惨で残酷であっても)ことを撮った数々のフィルムたちのことを思い出したのでした。これだけで伝わるんだ。
そして、タル・ベーラ監督がこれを最後の作品と言及しているとは残念・・・。
by book-tokyo | 2013-05-26 23:50 | 映像&頁もの
「未来の食卓」(原題「NOS_ENFANTE_NOUS_ACCUSERONT」)
「未来の食卓」UP LINKのサイト
ジャン・ポール・ジョー監督 
ガブリエル・ヤレド音楽! 
村のこどもたち、おとなたち
2008年フランス

美味しいお米の収穫を祝う宴から帰宅して、その夜観ました。たいへん興味深い内容でした。
フランスの田舎で、幼い子をはじめ、多くのヒトが白血病や癌で苦しんでいたことを知り驚いています。農薬、殺虫剤の散布、食事・・・多くの病気が胎児期の状態が大きく影響していることも・・・。
南フランス、バルジャック村・・・(あえて自然食とは言わずに)「オーガニック化」について取り組んでいること・・・村長さんが率先した「給食のオーガニック化」の取り組みを通じて、親や自治体、地元の商店などが変わってゆく様子を追うドキュメンタリー映画。給食をオーガニック化することで、村の初等教育プログラムにも変化が現れ、こどもの意識も大きく変わってゆく・・・一般農家とオーガニックに取り組む農家の対話会、給食を作るヒトやこどもたちの変化、村の人々の意識の変化・・・ほんの少し垣間見ただけで、何もその背景を知らないにも関わらず、とても心が動きました。
この映画の中で気付いたこと=こどもたちが、自分で収穫した葉っぱ、手にとった食べもの、飲みもの、何でもまず匂いをかいでみること(笑)面白い。だってオーガニック、ホームメーキング、ハンドメイドには「消費期限」がかかれたパッケージがないから・・・自然に自分自身の嗅覚も鍛えられるのかな。生きる力、人間の生き物としての力、改めて考えさせられるフィルムでした。
ちいさなことから、まず何が出来るのか・・・始めたいと感じています。我が家は経済的にもオーガニック製品だけで生活することは無理ですが、「?」な原料・添加物が入ったモノを買わないこと、できるだけ遠くから運ばれたものを買わないこと、日常消費するモノを厳選することはあまり無理せず日常化しています。ただ・・・目先のコストに惑わされないこと・・・ひとつのハードル。意識をどう切り替えられるのか。
それにしてもこの映画の中に映っている村の暮らし、食事の様子はどれもほんとうに美しい。監督曰わく「ドストエフスキーはこういいました“美こそ世界を救う”と。この作品は自然の美しさへのオマージュです。」ほんとうにそう感じる・・・。
この映画をプレゼントしてくださった濱田さん、ありがとう。「いのちの食べかた」「フード・インク」「ありあまるごちそう」も、家族で観ます!
by book-tokyo | 2011-11-21 02:56 | 映像&頁もの
島の色 静かな声
茂木綾子監督 ドキュメンタリー映像詩
「島の色 静かな色」を観ました。
ずっと観たいなぁ・・・と思っていたところ、この映像の製作に協賛・協力もしている大阪のちゅうさんにDVDを借用していたので。
石垣昭子さんと夫、金星さんの日常の記録・・・。風がずっと吹き続けていた映像でした。
石垣昭子さんは、産まれた時から「いつ眠るんだろう」と思うほどずっと芭蕉を績んでいたお祖母さまを身近にして竹富島で育ちました。東京の女子美で工芸を学び帰郷した後も、自然にそんな環境に戻っていったそうです。糸を染め、布を織ることを勉強することに価値があると確信したのは、志村ふくみさんとの出会いがきっかけ。そのエピソードが、心に残っています。
京都から竹富島を訪れていた志村さんに、ただただ糸を染め、布を織っていた石垣さんは「紅花」の染めを一緒にしてみましょう・・・と誘いを受けたそうです。その時に、志村さんによって染め出されたピンク色の美しさに感動し、勉強すれば、こんなに美しい色が出せるのだと知ったと映像の中で語っていました。映像に映し出された明るいピンク色は・・・色が溢れる都会の中ではほんとうに静かなひとつの色にすぎないと私には感じられたのですが・・・石垣さんのことばを思い返している間に色に対する忘れていた一面で意識はいっぱいになってしまいました。「色があることについて」もっと深く考えてゆかなくてはならない・・・。ともかく、色は、ただあたりまえにあるものでは無い。

志村ふくみさんの著書「一色一生」を思い出しました。
本来、色は自然の命から産まれるもので、色で染められた糸にもその命がこめられているという。色見本で指定した色が、機械的にモノに着色されて出来るのではない。本来の布、衣服は太古の昔から世界中の女性たちによって命から命への想いを積み重ねられて創られてきたものなのだと。つい最近まで・・・。
茂木綾子監督が、石垣夫妻の生活の合間に織り交ぜた、西表島のゴミ廃棄場、廃業したリゾート施設(島の聖地だった)、ビニール袋をのんで命を落としてしまったらしいウミガメの詩が、この映像詩が幻想的で日常を超越したものになることを静かに制している。
あっけないほどシンプルなカットのつなぎ、少しだけ「もう少し・・」と思わせるカメラアングル、自然な味付けで始まりも終わりも、そのまま島の風に繋がっているような日常感からなのか・・・何故か海外にいる外国のひとに観て欲しくなりました。
久しぶりに、風の吹く島へ行きたくなってしまいました・・・。
映像のこと・・・・http://www.silentvoice.jp/news/shop.htm
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by book-tokyo | 2010-03-03 15:31 | 映像&頁もの
メトロポリス
「メトロポリス METROPOLIS」
監督・脚本:フリッツラング  
1926年 ドイツ作品/サイレント

久しぶりに、メトロポリス、実に10年ぶり。
DVDクラッシック選集は、冒頭に淀川さんがコメントを述べている映像が入って、映画を観る心構え(笑)が整う。先週同じ仲間(シロマクキネマという名前の、有孔ボードに白い紙を貼った壁にプロジェクターで投影して観る映画会・初代は布を縫い合わせて、ニューシネマパラダイスだった)と「散りゆく花」(W・D・グリフィス)を観たので、モノクロ・無声映画を堪能した気分になりました。とはいえ、メトロポリス。デザイン史、映画史、SF史、他様々な分野に影響を与えたとする作品。一緒に観たみんなは、どう感じたかな?


改めて観ると、役者のメイクや演技の大袈裟さも、当時のフィルム性能、スタジオやライトの具合、無声であることを考えると笑えない。今となっては、かそけき光線の具合や、モノクロの諧調の抑揚のある豊かさは再現不可能なのではないかと思えるほどに、美しいと感じました。
メトロポリスは、労働者階級と支配者階級を例えて、「手」と「頭脳」はお互いへの思いやりを持って握手するべきである、を結論に21世紀(当時からすると未来)の都市の構造を描いている。地下都市には労働者が機械の奴隷となって働き、地上高層建築には支配者階級が豊かな暮らしをしている様子は、1926年のスケッチ(構想)とは思えないほど戦慄の走るビジュアル。
テレビ電話の今でも先端的と思えるデザイン、人造人間のデザインはスターウォーズを越えて、ロボットの典型的なイメージを私たちに与えている。当時コンピュータによる画像編集など不可能だったと思うにもかかわらず、斬新なコラージュ的手法には、感嘆のためいき。
ストーリーが、またまた今でも繰り返し描かれる、親子・男女・仲間の愛情物語りに支えられており、84年経った現在、私たちが新しく紡ぐことのできる物語りってどんなものなのだろう・・・と考えさせられたのでした。

あ〜、いつの時代にも、先見性を持ったアーティストは時代を超えてゆくな・・・。
by book-tokyo | 2005-07-14 22:27 | 映像&頁もの
リリィ・シュシュのすべて
「リリィ・シュシュのすべて」岩井俊二
2001

久々に日本の映画を観ました。
かもしだすにっぽん調。

13歳から始まって、12歳に遡り、そして、14歳まで続く少年の日常。
内面の純粋さと、日常に起こる残酷な出来事の対比が鮮明な脚本。
何よりも、それに気づかない・感じない大人の世界(唯一主人公の雄二の母を抜かして)の描き方が印象的であり、岩井俊二の視点はどこにあるのかについて、考えさせられる、映画っぽい映画でした。

青年期の曖昧さを、20歳前後ではなく、13~14歳で描いたこと、凄いと思う。
あまりにもリアルである時、観るものはどう現実に戻ったら良いだろう。淡々と過ぎてゆく少年時代は、これこのまま淡々と過ぎてゆくという予感?

見終わって2〜3日、妙な気持ちが続いて困ってしまいました。
(私の少年期と重ねているわけではありません(笑)あしからず)
by book-tokyo | 2005-06-10 22:35 | 映像&頁もの
アナ・トレント
「ミツバチのささやき」EL ESPIRITU DE LA COLMENA

1973年
ビクトル・エリセ監督 
アナ:アナ・トレント
イザベル:イザベル・テリュリア
フェルナンド:フェルナンド・フェリナン・ゴメス


久しぶりに、アナ・トレントに会いました。
ミツバチのささやき。
すべての少女性が持っていた、そしておとなになるにつれて失ってゆくものについて。
正直にいって、私はまだ忘れられないという意味で、ビクトル・エリセの視点に立つことが難しい。哀しくなるほど純粋な心と感性を持った、子供にだけ許される真実を見るまなざし。
それが真実か否かなどという設問には意味がない。まして、真実は在るのか否かという設問もナンセンスとなってしまう。

アナが出会い、信じ、見たものは、アナにとっては真実なのだから。
天才的子役といわれたアナ・トレントは、その魅了され引き込まれるような瞳の持ち主というだけではなく、幼心が傷ひとつなく透き通った、存在の儚さを体現している。制作秘話によると、エリセ監督がマドリードの小学校で初めてアナ・トレントに出会った時、彼が「フランケンシュタインが誰だか知っているかい?」と話しかけた際、アナは「知っているわよ。でも、まだ紹介してもらっていないわ」と答えたそう。そして、脚本にある役名に対して「どうして名前を変えなきゃいけないの?」と反発したのですって。どんな幼い子にも、虚構と現実の世界をさ迷う様子は見られると思う。
遠い昔を思い出せないおとなも、そんな幼心に触れると、失うことで強くなると思いこんでいることに気づくのではないでしょうか。そうであって欲しい。何故かさっと吹き抜けるような哀しみを感じさえる純粋さ。

この作品を知らないひとへ、もしエッセンスだけを伝えるとすれば、アナ・トレントというひとりの少女が、精霊を信じるという虚構を通して、虚構を否定することではない方法でおとなになってゆく予感を体現した作品・・・とでもいったら良いでしょうか。
でも、アナ・トレントをことばで表現するなんて不可能かもしれません。

ところで、今回改めて観て(もう数回観ていますが)、初めて感じたこと。
スペイン内戦終結翌年のスペインを舞台にしていますが、集落の様子が実に大らかだと感じたのでした。母は遠い駅まで自転車で郵便を投函しにゆき、父が集落から離れた場所より帰宅してみると、幼いふたりの娘たちはフィルム上映会を観に出かけている。空き地で焚き火を燃やして、飛び越える遊びに夢中になっている少女達。学校帰りに集落から遠く離れた小屋へ遊びにでかける幼い姉妹。汽車のレールに耳をあて、あやうく轢かれそうになる姉妹。いずれも現代の東京では無理だろう放任された子供たちの環境に感心し、驚きました。昔の東京も、こんな感じだったのでしょうか。


それから、姉役のイザベルのこと。
実はアナと同い年のこの少女。
何故か今回は、この子の表情にも惹かれました。

手紙のこと。
これには、色々と憶測があって、この映画をもうひとつの物語りとして、ひとり密かに楽しんでいます。とっておきのストーリは、テレサ(アナのお母さん)は、手紙を綴り、毎週のように遠い駅まで投函にゆくのですが、自分宛の手紙ではないか、という憶測。自分自身へ「あなたは無事ですが、どこにいますか」と終戦の混乱の中問いかけているように思えた。これは、とんでもない想像でした。

それにしても何度観ても秀作。ラース・フォントリアーの映像の色も好きなのですが、ビクトル・エリセのもっとのびやかでゆったりとした構図と、ため息のでるような美しい灰色にはかなわないな・・・と改めて。

最後に、挿入されていた「フランケンシュタイン」について
1931年・ジャームズ・ホエール監督 人造人間と少女、微笑みを知るフランケンシュタイン。双方の心の通い合いと悲劇。アナがひとつの扉をあけるきっかけになる作品。挿入シーン冒頭に制作者と監督からのご挨拶といって、紳士が「人類創造は神の御業なのを忘れた人の話です」「人類創造の秘密に迫る、生と死の物語りです」「世にも稀なお話、怒り出す人もあるだろうけれど、あまり本気になさらないよう願います」と語る。
DVD 東北新社
image 映画パンフレット表紙より 



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by book-tokyo | 2005-05-21 02:07 | 映像&頁もの
岸辺のふたり
「岸辺のふたり」をようやく観ました。

監督/ストーリー/デザイン/マイケル・デュ・ドゥ・ヴィット
2000年
英国・オランダ カラー8分

単館でかかって、このフィルムの予告を観た時、何か気になるけれど少し離れておこうかなという印象がありました。
でも、DVDの背を見るたびに、いつか観ようと・・・。
観ました。

幼い子供の頃、湖へ〜それは大地でもあるのですが〜消えていった父の面影を、一生涯慕い続ける女性を描いた、ショートアニメーションです。純粋な親子の愛を、こんなシンプルなアニメーションと音楽で描くことができるなんて。
このフィルムが歪まずに映るように、心の鏡を磨いておきたいと思いました。
テクニックではなく、何よりも監督の心と真っ直ぐとした眼があったから描けた作品ではないでしょうか。

どんな子にとっても父に対する想いは様々あるでしょう。
女性が父に対して持つ想いと、男性が母に対して想うものは、ただ子が親を想い、親が子を想うという同じ定規では、測れないのではないかしら。


でも、そんな思索はやめて、ただ、8分のあいだ、あたまを空っぽにして観る。


初めて観た時には、最後の瞬間に涙が止まらなくなった。
2度目に観る時には、きっと冒頭で泣いてしまうだろうと思う。

美しい作品でした。

(予告編のようになってしまいました(笑))
by book-tokyo | 2005-05-19 01:11 | 映像&頁もの
COFFEE&CIGARETTES Vol2
唐突にジム・ジャームッシュ監督「コーヒー&シガレット」
超個人的な感想vol.2です。

今晩は最終話「CHAMPAGNE」シャンパン
BILL RICE+TAYLOR MEAD
あまり美味ではないコーヒーをシャンパンにみたてて、夢見るような眼差しを宙にたゆたわせるテイラー・ミード。
Ich bin der Welt abhanden gekommen /ジャネット・べーカーの歌声が、倉庫のような空間にオーロラのように現れては消える。ビル・ライスとの会話も、現実的な仕事の休憩時間という設定から、やがてふたりがそれぞれの想いの中に耽ってゆくフェードアウトが、何ともいえず心に残っています。
死を予感する、夢想のオーロラ。

ジム・ジャームッシュの日常への優しくも透徹とした視線に、手元のコーヒーカップたちにも、同じ予兆や繰り返しを見つけることができるように感じてしまう。身の回りの出来事がぼんやりと浮かび上がってきます。
image「コーヒー&シガレッツ」より http://coffee-c.com/

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by book-tokyo | 2005-05-10 01:04 | 映像&頁もの
LUMIERE ET COMPAGNIE「リュミエールと仲間たち」
un film de SARAH MOON Moon 1995年
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テレビの替わりと言ってはおかしいのですが、様々な物理的な条件で、私の目の前にあるモニタ3台にはDVDとインターネット配信の映像しか映りません。
今晩は、「リュミエールと仲間たち」を流しています。
映画史上はじめて動画を撮影したリュミエール兄弟が使ったとされるカメラで、40名の監督が撮影した。REGLEは3つ。
規則1 1カットは52秒
規則2 同時録音なし
規則3 3テイクのみ

テオ・アンゲロプロス ジャック・リヴェット マイケル・ナイマン アンドレイ・コンチャロフスキ スパイク・リー ヴィム・ベンダース 吉田喜重 アラン・コルノー チェン・イーモー デヴィッド・リンチ・・・etc.
映画は死にますか? 映画を撮る理由は? 映画を撮る動機は? 

カットの中途で、各監督へのインタビューが挿入されている。
それぞれの監督が、規則を面白がってシネマトグラフで撮影された映像はどれもそれだけで美しかった。デヴィッド・リンチの徹底したフィルムの中に入り込んでしまったフィクションにも驚き。アラン・コルノーの魅惑的な踊り子と思わずアラン・コルノーと同じくらい微笑みたくなる素敵な色彩の映像。「物語りはなくならない。物語りに対する欲求は不滅だ」といったヴィム・ベンダース、「誕生があるように死もある、したがって映画が消滅する時が来るかも知れません」といった吉田喜重。私にとって、映画監督が映画について語るように、画家が絵画について、作曲家が音楽について語る・・・同じように思えてしまう。ただ、カメラを覗いて視る=観られるという点で、なぜか映画を親身に感じるのですね。
何といっても、ジャック・リヴェットに質問された「映画を撮る理由は?」に対して答えているシーンは涙が出てくるほど感動した。
「映画」を「なにか」に変えたとしても、リヴェットの「その答えは長く懐疑的な沈黙だ・・・だから・・・」に比べたら、どの監督の答えもとても個人的で日記のよう。植木鉢と新聞紙を交換してしまうローラースケート女とシャツ男。そして、地面に描いた図形(地図)の上をケンケンする少女と歌声。サラ・ムーンの優しい映像もすばらしい。Gakkenから、日本語字幕も出せます。無神経な映像の嵐に疲れた時の鎮静剤になるかしらん。
「リュミエールと仲間たち」Gakken
http://musik-platz.gakken.co.jp/special/lumiere.htmld0020310_0463171.jpg
by book-tokyo | 2005-05-09 01:00 | 映像&頁もの